林檎舎ニュース

投稿日:2016/06/27

元宮内庁長官の藤森昭一氏死去、昭和天皇の「大喪の礼」などの対応にあたる

元宮内庁長官の藤森昭一氏死去、昭和天皇の「大喪の礼」などの対応にあたる

宮内庁長官として昭和天皇の「大喪の礼」などを取り仕切った藤森昭一氏が25日に死去した。89歳でした。64年1月7日に昭和天皇が崩御したことを伝える記者会見を行い、その後の大喪の礼、平成2年の天皇陛下の即位の礼、大嘗祭を取り仕切った人物。

藤森昭一氏は東大卒業後、1950年に旧厚生省に入省。
環境事務次官・内閣官房副長官などを経て、88年4月に宮内庁次長となり、6月には宮内庁長官に就任した。在任期間は96年1月まで約7年半にわたり、昭和から平成への代替わりを取り仕切った。

5年に皇太子さまと小和田雅子さんのご成婚が決まったことも発表。8年1月に退官後も陛下の相談役である宮内庁参与を務めたほか、日本赤十字社社長などを務めた。11年に勲一等旭日大綬章を受章しています。

【元宮内庁長官 藤森昭一氏死去】元宮内庁長官で昭和天皇の崩御に伴う対応などにあたった藤森昭一が死去。89歳。皇太子ご夫妻のご成婚が決まったことも発表。
元宮内庁長官の藤森昭一さんが亡くなったと。昭和64年1月7日の朝に宮内庁の講堂で当時の天皇陛下が亡くなったことを発表した方。同じ時間に総理官邸会見室で発表した小渕恵三さん(当時官房長官)もすでに鬼籍に入っておられる。

「大喪の礼」とは

大喪の礼(たいそうのれい)は、国の儀式として行われる天皇の葬儀。

「喪」は「うしなう」という原義から人の死、さらにその追悼と葬儀を意味する字であり「大喪」で「君主の死とその服喪と葬儀」を意味する。日本では「大喪」だけで「天皇の崩御と斂葬」を指す(反対語は君主(天皇)の即位を指す「大典」)。

明治天皇・大正天皇の葬儀は「大喪儀」として行われた。現日本国憲法下において「天皇の葬儀」は、皇室典範第25条の規定に基づき国の儀式として執り行われる「大喪の礼」と、皇室の儀式として執り行われる「大喪儀」とに区別される。

昭和天皇・大喪の礼
1989年(昭和64年)1月7日に崩御した昭和天皇の大喪の礼は、同年(平成元年)2月24日に、内閣の主催(大喪の礼委員会委員長・竹下登内閣総理大臣)により行われた。

「大喪の礼」は、当日午前9時35分に、昭和天皇の霊柩を乗せた轜車(じしゃ。霊柩車)を中心として組まれた葬列(車30台、サイドカー30台の車列、全長約800m)が、宮内庁楽部による雅楽「宗明楽」と陸上自衛隊による21発の弔砲に送られて、雨の降る皇居正門を出発することに始まった。出発前には、皇室の儀式「大喪儀」である「斂葬の儀」の一部である「轜車発引の儀」(じしゃはついんのぎ)が執り行われ、出発をもって国の儀式である「大喪の礼」が始まった。

「葬場殿の儀」が営まれた後、再び幔門が閉じられ鳥居等が外され、内閣官房長官・小渕恵三が「大喪の礼御式を挙行いたします。」と開式を告げることで国の儀式である「大喪の礼」は始められた。次いで、天皇と皇后が葬場殿前に進み、正午から1分間の黙祷が行われた。黙祷の後、内閣総理大臣の竹下登を始めとした三権の長が拝礼の上で弔辞を述べ、外国元首・弔問使節の拝礼、参列者の一斉拝礼が行われ、葬場殿における「大喪の礼」は終了した。

その後、午後1時40分から、再び葬列を組み、四谷四丁目、新宿三丁目、新宿四丁目、首都高速道路4号新宿線初台出入口、中央自動車道八王子インターチェンジを経て、午後3時15分に、陵所が置かれる武蔵陵墓地に着いた。陵所では再び徒歩列が組まれて、皇室の儀式として「陵所の儀」が営まれ、昭和天皇の霊柩が陵に納められた。この陵は、武蔵野陵と名付けられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%96%AA%E3%81%AE%E7%A4%BC

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