【岸田文雄】学歴や経歴まとめ丨中学・高校・大学を振り返る

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政治家

第100代・第101代内閣総理大臣に就任した岸田文雄さん。キッシーの愛称で親しまれています。

ここでは、キッシーこと岸田文雄さんの学歴や経歴を振り返ってご紹介!

岸田文雄さんの生い立ちが気になる方は、ぜひご覧ください。

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岸田文雄の学歴を振り返る

岸田文雄さんの学歴を簡単にまとめると、次のようになります。

  • 1965年:ニューヨークの小学校PS 20入学
  • 1966年:ニューヨークの小学校PS 13に転校
  • 1968年:千代田区立永田町小学校に入学
  • 1971年:千代田区立麹町中学校に入学
  • 1974年:開成高校に入学
  • 1979年:早稲田大学法学部に入学(二浪)

岸田文雄さんは1957年7月29日生まれ。出生地は東京都渋谷区です。当初は東京で育ったものの1963年、父の仕事の都合でニューヨークへ移住することに。

ここからは、岸田文雄さんの学歴をより詳しく深堀りしていきます。

岸田文雄の小学生時代

1963年秋〜1964年冬まではニューヨークの公立小学校「PS 20」に通学。1964年春からは「PS 13 Clement C Moore School」に通学。

そして1966年に日本へ帰国し、7月に千代田区立永田町小学校(現:麹町小学校)に転入しました。

岸田文雄の中学生時代

永田町小学校を卒業後は、千代田区立麹町中学校に入学。岸田文雄さんは軟式テニス部に入部しました。目立った成績は残していないものの、勉強だけでなく運動にも励んでいたようですね。

ちなみに麹町中学校はエリート(名門)と称される学校。麹町中学校→日比谷高校→東京大学という学歴が一つのステータスなんだそうな。

岸田文雄の高校時代

引用元>>Smart FLASH

麹町中学校を卒業後は、開成高校(普通科)に入学。岸田文雄さんは野球部に入部し、セカンドやショートを守ることに。

高校から野球を始めて、二遊間と呼ばれる花形ポジションを任された岸田文雄さん…運動神経が高かったのでしょうね。ちなみに打順は1番や3番、時々6番だったとのこと。

また、開成高校といえば全国トップクラスの偏差値を誇ります。偏差値は77〜78ほどで東京都内・全国的なランキングでも一桁に食い込むほど。

そんな中、岸田文雄さんは真ん中くらいの成績を確保していたそうです。

岸田文雄の大学時代

引用元>>毎日新聞

岸田文雄さんは当初、東京大学を目指していました。

高校3年時は東京大学のみ受験したものの、あえなく撃沈。浪人1年目も同じく東京大学のみ受験し、再び撃沈。

浪人2年目にして東京大学のほか早稲田大学・慶應義塾大学を受験。結果、東京大学は不合格で早稲田・慶應義塾に合格。

やむなく早稲田大学に進学した岸田文雄さんですが、親族の多くが東京大学を卒業されていることもあり、「官僚コースを外れた」と、いわゆる学歴コンプレックスを感じたこともあるそうな。

名言を引用するクセも、学校コンプレックスからきているのかも…?

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岸田文雄の経歴を振り返る

早稲田大学を卒業後、岸田文雄さんは日本長期信用銀行に入行。5年ほどサラリーマンとして働き、政治家になる決意を固め退社することに…。

ここからは、岸田文雄さんの社会人時代を詳しく振り返っていきます。

岸田文雄の日本長期信用銀行時代

日本長期信用銀行(現:新生銀行)は当時、エリートしか入行できないようなトップクラスの銀行でした。多くが東京大学・京都大学の卒業者。

岸田文雄さんは最初、日本長期信用銀行の本店に配属され外国為替業務を担当。2年半ほど経験した後、海運業界担当の営業として高松市に赴任。

これまで首都圏でしか生活してこなかった岸田文雄さんは、初めて地方の現状を目にすることに。

高松市の企業の中には利息を払うことが困難で、倒産や夜逃げに踏み切るところ少なくなかったそう。岸田文雄さんはこの時、世間の厳しさや経済の実態を痛感。

そして入行から5年後の1987年、政治家になる決意を固め、日本長期信用銀行を退行するのでした。

岸田文雄の秘書時代

1987年に日本長期信用銀行を退行した岸田文雄さんは、父・岸田文武さんの秘書になりました。岸田文武さんは口数が少なかったため、岸田文雄さんは背中から多くを学んだそう。

岸田文雄の初当選

引用元>>NHK

秘書として働き始めて6年が経過した頃。岸田文雄さんは第40回衆議院議員総選挙(1993年)に旧広島1区から出馬。自由民主党公認で出馬した結果、見事に初当選を果たしました。

当時、岸田文雄さんは36歳。第40回衆議院議員総選挙には安倍晋三さんも初当選しているため、2人は同期にあたります。

そして1996年の第41回総選挙では、小選挙区比例代表並立制に伴い広島1区から出馬。再び当選を果たすと、以降は立て続けに当選を果たし、1997年には若手の登竜門とも称される「党青年局長」に就任。

着実にキャリアを積んでいき、文部科学副大臣・内閣府特命担当大臣・宇宙開発担当大臣・外務大臣・防衛大臣などを歴任。

2021年9月29日には自由民主党の総裁選挙に勝利し、第100代内閣総理大臣に。

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